スポンサーサイト
-------- -- --:--
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
別窓 | スポンサー広告 | top↑
情熱は暁に溶けて
2007-10-25 Thu 03:06
鏡に映った顔は、なんとも表現し難いものだ。

特にそれが、こちらがそれを眺めているとは知らない、愛する人の世界であるのならば、その時間は時に甘く、そして残酷に流れていく。

鏡の前で一人見せるその顔は、言わばその人間の心象風景がこの現世に少しばかり、悪戯をするタイミングを窺う妖精のように、そっとその姿を現したものだと、私は思う。

半分閉じたような瞼の下から、まるで自分を、他者を値踏みするかのように上目遣いで覗き込む。
それは自己への疑問、不満、反発を抱えた眼差しであることが多い。
逆にその目が伏目がちに下方へ向けられ、私のがさがさの手で撫でられ、しかし淡く桃色に色褪せない頬が緩んでいる場合、それは幸福であり、至福をその些細な瞬間に、噛み締めているものだと、私は思う。

鏡の前にいながら鏡を全く見ず、頭頂部を鏡に映して肩をいからせ、深い溜息だけがその体を動かしている状態の時は、触らぬ神に祟りなし、とはいうものの、そっとその体を包むことが私に出来るほんの少しながらの慰みかもしれない。
何故なら、そういった時人間は大抵、疲れや悲しみをこらえているものだからだ。
怒りがそうさせる場合もあるが、それはそれであり、相手のことを思うのであれば、ああ、親愛なる愚鈍な私よ、その時は彼女の手を優しくさするしかないのだろう。

その光と世界を正反対に反射する鏡の前で、不思議そうな眼差しを自分にあて、ころころと笑ったりふくれっ面をしたりするのは、何か楽しいことを堪えている状態。
先ほどとは逆に、この面白おかしい行動をしている間、その人は意識的にそれをやっているので(ただ感情を堪えきれずそういった行動に走っているだけなのだ)、これを邪魔すると後で痛い目にあるのである。
無論、こちらとしては面白い話の記憶が増えるだけなのであるが、相手にとって恥ずかしい記憶を植え付けるのはやぼというものだろう。
不可抗力で無い限り、このつまらない文章を目で追ってくださっている皆様も、どうかそういった女性達の可愛らしい一面を妨害しないで頂きたい。

話はそして、私に移るわけだが。

今こうして、その人を失った後に見る鏡というのは、なんとも空虚なものだ。
上記にあげたような、自身の世界など垣間見えず、ただ毎朝髭は伸びていないか、目ヤニはついていないか、などといった、儀式的、典型的なことにしか私の心は働かないのである。

しかし時に、ふとした夜もまだたけなわの時間。
理由もなく鏡の前に自身をかざしてみれば、おかしなことに、過去の記憶という光が、私というフィルターを通して、鏡の世界に具現するのである。

眼鏡を傍らに置き、顔を洗う姿。
化粧が崩れていないか確認し、リップ、アイラインを整える姿。
そして、上記にあげたような、甘く、恐ろしく、しかし愛する人間の世界を覗き見るという、やや緊張にも似た甘美な時間。

そうして、私は引きつったように曲がった、自嘲気味の自身の唇を認めることで、現実世界へと引っ張り戻される。
軽くふっ、と溜息がもれるのはいつものこと。
馬鹿馬鹿しい、と常々頭の中で言い捨てては、自分の嫌悪すら覚える顔に一瞥をくれて、そのバスルームを立ち去るのである。

そうして、私はただ夜明けを待つ。
少なくとも、陽光は図々しいほどに明るいため、私の心を暴きはしないからだ。
逆に、優しく私を包むような月光と暗闇、そして静寂は、私の無駄な努力を嘲笑うかのように、ゆっくりと、一枚一枚、私の心のひだを押し広げ、そして様々な感情を露出させてしまう。

ああ、夜とはなんと、罪深いものなのか。
いや、それはただ、夜に暴かれる自身の罪深さをただこの美しい闇夜に押し付けているだけなのかもしれない。

無気力さに我を見つめることしか出来なくなった私は、ただ、ひたすらに暁を待つ。
そうすればきっと、私は安らかに、自己への欺瞞も怠惰も感じずに、深く静かに、夢の中へと沈んでいけるのだから。

情熱は暁に溶けて、ゆっくりとゆっくりと、その僅かな灯火を心に残す。
いつかまた、夜が愛すべき時間になる日を待って。
スポンサーサイト
別窓 | 未分類 | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
老いぼれ犬のセレナーデ
2007-10-11 Thu 00:32
題はEgo-wrappin'の曲名から拝借。

題名を見ていただけた皆様にはもう理解していただけるかと思うが、私は疲れている。
何に疲れているのか、と問われれば、それこそ堰を切った様に様々な愚痴を吐き出すことが出来るが、そういったありふれた心情を表すのはミクシィでの日記の役割。
ここでは余談。

私が思うことを徒然と書いていくわけだが、疲れた時になんとか刹那的に得ることが出来る休息、安息の時間。

それは例えばベッドの上で腕を目の上に置き、夢と現の境に在る時間であったり、食後に、気の置ける友人と静かなコーヒータイムを過ごすことであったりと、私はどうやら、楽しく騒がしくということよりも、静かで心地よい空間を好む癖が出てきたようだ。

数年前まではやかましい若輩者として周囲に可愛がられもし、疎んじられもしてきたが、やはり、時の流れというのは否応なく人に変化をもたらす物であると実感せざるを得ない。


さて、疲れている時に得られるその僅かな安らぎの時間であるが、私はそういった瞬間に、心をどこか遠くへ残し、過去を回想する頭を眺めたり、未来を思いやる不安を、コーヒーやおいしいスピリッツ、カクテルの後に出てくる微かな溜息で誤魔化す、或いは掻き消すのが好きである。


しかしそういった感情はやはり、疲れの増加と共にどうしても深くまで掘り下げてしまうもので、どうにも私のような事柄に縛られる人間は特ではないと、時に神を呪いたくなるものである。

そして、こういった場面にはきっと、年老いてからは日常として触れ合っていかなくてはいけないのか、と、我ながら、まだ見えぬ60年後等を自分に重ねてしまう時もある。
人間、死を身近に感じる年になると、死への恐れよりも、どうやら自分の残してきた足跡を辿ることで、その存在をなんとか感じようとするらしく、それは父や母、他の数名の老紳士・淑女との関わりで知ったことである。

よくそういった人々の話を聞いて、私達のような年代の人間はうんざりするものであるが、確かにそういう話に耳を傾ける気はないにしろ、彼らのような心境に到達している人間には、至極興味を覚えるのも確かである。


何故ならば、やはり私も人の子であるから、死を恐れる気持ちもある。
そして、過去の幸福にしろ不幸にしろ、そして成功や失敗、自分が残してきたもの、残せなかったもの、そういうものを全て悔恨として、涙をこらえるようにして見つめている自分がいるのである。
幾つかの事柄は確かに微笑を持って受け入れたり、溜息を付き頭を少々揺らしてやることで誤魔化すことが出来るようになったにせよ、未だ、当時の自分、関わってきた人々に後ろ髪を掴まれ続けている感はいなめない。


だから、私は時に思う。
老人の話は確かに過去の話であり、その光芒ばかりを話すような人間にはほとほと疲れてしまうのであるが、その彼らは過去を見つめ、時には充足を感じ、時には後悔を感じ、しかしながら、それらはもう無いものだと理解して、ただゆっくりと瞼を閉じてその鮮明な自分を、感情を抜きにして見つめている。


その、なんと穏やかな感情の波紋であることか------------


まるでそれは、六月の朝に当然の如く露に塗れた紫陽花の葉から、零れる最愛の蜜を大地が吸っているかのようであり、夏に蛍が、短い生涯に疑問もなく、ただ照らしていた事実を理解していくようにして、夜に消えていくようなものに、私は感じられるのだ。

五月の陽射しは柔らかく、そして涼しく暖かく、針葉樹の葉を縫って木漏れ日として私の目を柔らかく包むわけだが、あの不意に訪れる、無音で無為の、満ち足りた瞬間の連続。

私の心も常に穏やかであってくれ、と。
そう叫んでいる自分に冷笑しながらも、ただそう願う瞬間に私は又、コーヒー臭い吐息をもらすだけなのかも知れない。


セレナーデとは、元来、夜、恋に落ちた男が見初めた女性の住む家の窓の下で歌う甘い旋律の歌・曲を指すが。
老いて我が身を振り返る時に、そのような優しく甘い心持で自分を見つめられるとは、それはなんと幸せなことであるのだろう、と私は夢想してみるのである。

願わくば、私のその旋律は穏やかで暖かみのある音色であって欲しいものだ。
別窓 | 未分類 | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
少女至高
2007-10-09 Tue 23:58
この私の精神・内面記録(日記と呼ぶにはきっと、あまりにもふさわしくないものになるだろう)を綴るにあたって、此処を訪れて私の世界に目を留めて下さる皆様に、まずは伝えなくてはいけないことがある。

-------------少女嗜好、という題名についてである。

自らこのような愚かしい名前を付けてみたものの、此処は児童ポルノとは全く関係がないし、私自身、別段、小さきか弱い乙女を好んでいるわけでもない。(この点に関してはやや対極の位置にあると言ってもいい。)

ましてや、少女が嗜好するものを好んでいるわけでもないし、少女の嗜好をとかく羨んでいるわけでもない。
確かに、幼年期におけるかの生命(これには少年も含まれるが)の純真さには、羨望さえ越えて恨めしさを覚えることもあるが、それは余談というものだ。

現在では少女、という言葉はロリータ、ロリヰタ、メイデン、ゴシックロリータ、それに関連してアリスなどというものを連想させる単語として、案外、皆様には浸透したものかと思う。
文学で言えば、ナボコフ著「ロリータ」はあまりにも有名であり、あの迷作とも呼べる稀代の名作は、君島 正氏の手によって、日本人にも美しい文学として心に響くことになったかと思う。
私は確かに、それらのこと好み、愛してはいるが、それとは別に、このタイトルを付ける確固たる理由があるのだ。

それは、私が愛する女性達(つまりそれなりに時を重ね、美しく成長し、人間の、そして世の中の酸いも甘いもある程度経験してしまい、泣くことが下手になってしまった、何かに疲れている女性達なわけだが)が、それでも人を愛する中で時折見せるその少女たる純真さ、純粋さにたまらなく惹かれるからである。
私の一生はむしろ、そういった女性の為にあると言っても過言ではない。
その女性達の中の一人だけを、私の生涯を以って幸せにすることが出来たなら、私が此処に在る理由はきっと初めて意味を成すだろう。


さて、少々前置きが長すぎたかもしれない。
しかし、これは一つ目の私の精神記録であるが、これを綴っていく以上、上記のような理由を以ってして付けられた題名というものを紳士淑女の皆様に理解して頂きたかった。
何故かといえば、結局のところ、これも私の心象心理であるからだ。


さて、このような精神の鬱屈を吐き出すために、私はなぜブログなどという手段を選んだのか。
先例に倣うならば、手記や日記は、実に格好のものだ。
私も下手の横好きではあるが、物を書いている人間として、そして文学を愛する人間としては、この手記というものに惹かれないこともない。
中井英夫や三島由紀夫、芥川龍之介、正岡子規、夢枕 獏、司馬 遼太郎、アンネ・フランク…こうして今思いつく手記・日記を付けていた人物を挙げてみたが、先例を挙げるだけでも私の一生はかかってしまうかも知れない。

だが、現実的な問題として、私は筆不精なのだ。
その点ではやはり私は、21世紀を生きる人間なのだろう。
手記や日記といった嵩張る物を持ち歩くよりも、携帯電話やPDA、ノートパソコンの方が私にはしっくり来るのだ。
何より、手で物を書くのにはどうしても感情が篭ってしまう。
私は感情の無駄遣いが至極嫌いな人間であるので、愛する一人、或いは未来に出来るであろう慈しむべき家族以外の存在には、出来うる限り感情を割きたくはないのだ。
無論、愛しい友人達はこの例ではない。
愛と友情は別なるものであり、そこにある相手を慈しむ気持ちもまた、遡れば確かに同じ源流では在るのかもしれないが、浪費される感情としては全くの別物であるからだ。
これは到って自慰、つまり自己満足的な考え方と皆様は一笑に付されるかもしれないが、私にとっては大事なことなのだ。

愛する一人の人を差別する。
それは相手を見下ろしたり扱き下ろしたりするといった差別ではなく、この世の中で唯一美しいものとして、禁断の果実のようなものとして、至高として差別するのであり、それは私にとって、私の心を全て委ね、引き裂いてでも守りたく、捧げたくもあり、そして手に入れたいものでもあるのだから。

少女至高とは何とも、私の庭園に名づけるにしては言い得て妙だとは思うのだが。
別窓 | 未分類 | コメント:0 | トラックバック:1 | top↑
| 少女嗜好 |
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。